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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

魔王・信長の実像 ─兄弟・家臣たちとの狭間で苦悩─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅③

■信長と信勝が衝突!! 当主争いに終止符

 長良川の戦いの翌月にあたる5月には、信秀の老臣であった林秀貞(はやしひでさだ)が、早くも信長に反旗を翻す。信長が斎藤義龍や織田信賢をも敵にまわしたことに危機感を抱いた林秀貞は、信勝の宿老である柴田勝家とも通じて、信勝を家督に擁立するべく動き出したのである。林秀貞は、信長から那古野城を預かるほど信頼されていた筆頭家老だった。

 そうした情勢のなか、林秀貞や柴田勝家の支援を受けた信勝は、公然と兄・信長に対抗する姿勢を見せるようになった。そしてついには、信長の直轄領である篠木(しのぎ)三郷を奪うなどの実力行使にでたのである。これに対し信長は、信勝の居城・末森城を牽制するために名塚(なづか)砦を築き、家臣の佐久間盛重(さくまもりしげ)に守らせた。

 ところが、8月23日、この名塚砦を柴田勝家と林秀貞の弟・美作守(みまさかのかみ)がおよそ1700の軍勢で攻撃してきたのである。このため、翌8月24日、信長自ら清洲城を出陣するが、軍勢の数は700ほどにしかならなかったという。そして、両軍は於田井川(おたいがわ)[庄内川]を挟んだ稲生原で衝突することになった。ここは、清須の東約5㎞ほどに位置しており、信長のほうが追い込まれていたことがわかる。

稲生の戦い古戦場

稲生の戦い古戦場現在は市街地の一角に案内板が立つのみだが、周囲には五輪の塔が所々にあり、戦死者を葬った跡だとされている。


稲生の戦い戦況

【稲生の戦い戦況図】
信長を廃し、信勝を当主にしようと企む林秀貞は700の兵力で参戦。信勝の軍と合わせて1700の軍に、信長は700の兵力で対峙。一時は劣勢を強いられた。

 まず最初に動いたのは、信長の方だった。午刻(正午頃)、信長の軍勢が柴田勝家の陣に突撃する。しかし、柴田勢に阻まれ、佐々成政(さっさなりまさ)の兄・孫介(まごすけ)らが討ち死にしてしまう。逆に、信長の本陣が柴田勢に脅かされ、このとき、信長の周りには織田勝左衛門・織田信房(のぶふさ)・森可成(もりよしなり)といった側近しかいなかったという。しかし、信長が大きな声で柴田勢を一喝すると、柴田勢は信長との戦いを避けて退散していった。これをみた信長は、軍勢を率いて美作守の陣に突撃し、自ら美作守を討ち取ったのである。

稲生の戦い

稲生の戦い大将である信長が前線に立って戦ったとされる稲生の戦い。のちの桶狭間の戦いにおいても信長はこの姿勢で臨み、ともに劣勢をはね返す勝利を収める。CG/成瀬京司

 この日、信長は清洲城に凱旋し、翌8月25日、首実検を行った。敵将を討ち取った信長の勝利である。
 この稲生の戦い後、信長は母・土田御前(どたごぜん)の懇願をうけて信勝を赦免する。しかし、翌弘治3年、再び謀反をおこす気配があったとして、信長は信勝を清洲城に招くと、その場で誘殺したのだった。こうして信長は、名実ともに父・信秀の後継者となったのである。

 そのころ、岩倉(いわくら)城に拠る尾張上四郡守護代の織田信賢は、斎藤義龍と結んで信長に対抗し続けていた。永禄元年(1558)5月、信長は出陣してきた信賢の軍勢を浮野(うきの)の戦いで破ると、そのまま岩倉城を包囲する。そして、3カ月近くの籠城戦のすえ、信賢を降伏させた。信賢を逐った信長は岩倉城を破却し、ここに尾張平定を成し遂げたのである。

清洲城

清洲城若い頃の信長の居城。現在は愛知県を代表する観光スポットになっており、当時を再現した優美な外観と、信長や清須の歩みを紹介する内部の展示は魅力的。

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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